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24 May

【本読み】香港 「帝国の時代」のゲートウェイ


↑というわけで読んでみた。
・・・私の緩い頭だと金融の難しい事は何度か寝落ちして読後も理解しきれてないのですが、この本ではヒト・モノ・カネの流れという経済史の考察を重ね、しかもちゃんと時系列順に香港のお金の流れの歴史も解説されていて、より香港の存在理由や香港史の背景のメージが掴めれる気がしてきました。”アジアの金融センター”と呼ばれてるのもようやく、ああ!こういう流れからスタートした香港にとって、伝統なんだ!って理解できるようになりました。読後感、とても素晴らしかったです。2012年発行の最近の本なので情報も比較的新しい良本です。よろしければ是非。

せっかくなので個人的に頭にメモしておきたい事項まとめ。
ここからはAPHファンサイトなのでアサホンちゃんネタで使うことをお許しください。

-引用-
1841年、英国はアヘン戦争の最中に香港島を占領し大英帝国のコロニーとする旨を宣言した。翌年、南京条約によって香港島は清朝から英国に正式に割譲される。
これは英国側からすれば、当時の清朝が固執していた制限的な貿易体制を打破し、中国を19世紀型の「帝国」による自由貿易体制に包摂しようとする意志の表れであった。
すなわちいくつかの漁村と岩山だけしかない香港に、「自由港」という、広州に代わる新たな通商中継地、公行に代わる新たな経済機能を確立することは、新しい秩序の下で、中国と世界を結ぶ「場」を形成することに他ならなかった。こうして香港という存在が世界史の中に登場する。
しかし英国の期待は当初から裏切られる。何故ならば、広州という都市に集積されたゲートウェイの機能は、香港には安易に移転しなかったからである。(略)割譲から10年ほどの間、香港は目立った経済発展をとげることはなかった。英国官民は占領以前から、香港の地理的好条件を認識してはいたが、それは貿易港としての必要条件であって、十分条件ではなかったのである。
転機が訪れたのは1850年代、太平天国による華南・華中の混乱、第二次アヘン戦争に伴う広州大火(1856年)によって、往来の流通ルートや経済システムは修復不能な打撃を受け、中国商人と外国商人の双方が、貿易決済の新たな方法を模索し始める。
こうして19世紀後半に「香港ドル」を用いた決済の導入が進んだことで、香港は華南と世界を結ぶための中継・決済地となっていった。

◆「華南(中国南部)・東南アジア」には個別の経済圏ではなく
一体化した経済圏の空間が存在していた!


西洋人だけでなく、華人の商人、同郷ネットワーク等によりこの辺の経済圏は活発だったんだよ。と。

帝国時代の香港は、この「つながり」や「ながれ」の集散地点として単なる自由港を超えた大きな役割を持っていた。なのにこの目の前に広がる空間の説明が、長年なかなか説明されない!しにくい!!
その理由は、一国的な「帝国」や「国民国家」の枠組みや「陸のアジア」や「海のアジア」といった領土概念では捉えきれない次元でそれは作動しているのに、往来における一般的な空間認識は、英領、仏領、蘭領、清国などの政治・行政・統治の枠組みや境界からなかなか脱却出来ないのが原因なんだそうです。香港を語るには重要なポイントなのに!19世紀半ばから20世紀前半におけるグローバリゼーションが生み出した経済活動を語る時にも、その境界を超えた空間の広がりに着目するべきである。と著者は記してます。

香港さんの華僑勢力圏で見る相関図
 
また、本書では1941年12月の香港陥落で、” 約1世紀にわたって機能した香港のゲートウェイとしての役割は一時的に停止" という表現をされています。"1945年以降の太平洋戦争終結。広州や上海も中華人民共和国の国家の一つとして線引きされ、これまでの関係も一時的終了。とともに、大戦後は新たな「流れ」を形成するようになる。" 19世紀の帝国時代によって出来上がった大きな経済圏の空間を『歴史の彼方に消え去った経済圏』と表現され、香港史に一旦線引きをして、その後の「香港」を、これまでの「つながり」を強みにして、『新たに発展していった 』と解説される構成が印象的で、いままで私の中でごちゃごちゃしてた香港史がすっきり整理されたような気がします。
紅いカーテンで「閉じた中国」時代の香港は、歴史本でよく「中国の窓口」と表現されるのですが、これも本書を読んでいくと、英国の自由港の宣言から始まった香港の役割を考察すると、自然な流れで「窓口」になってたことも理解できたし、その後の「開いた中国」で香港が必要だったことも、読んで、つかめた!(気がする)


さてと、それでは自由港として始まった初期の香港で活躍した「銀号」の話が興味深かったのでその話をメモ。

◆銀号の話

広東紙幣が複雑すぎて、外国人商人はあまり利用したくなかったので香港ドルで決済していた。逆に、広州商人は広東紙幣が欲しかった。
初期は広州に外国銀行がなかったため、広州にある「銀号」というサービスを通し、
香港ドル⇔広東貨幣で広州商人と外国人商人はお金の決済していた。そういう流れで広州で香港ドルや小為替を買った銀号は、香港に来て香港の外国銀行(HSBCなどの銀行)で現金に変換していたそうです。香港ドル便利だね!ってことで香港と広州はこうして連動していった。
やがて香港にも銀号が建ち、海外に住む華僑たちが華南の故郷などにお金を仕送りする為に(華僑送金)香港で銀号と直接取引をされていたとかも、あり。

こうして香港ドル決済圏が形成されていき、往前の華南と世界の関係を大きく変えると同時に、香港に様々なモノが集まるようになった。

φ(..)香港ドル誕生
当時、メキシコドルやスペインドル、英国や東インド会社の金銀貨幣、中国の銀両・銅銭が交錯しまくってて、香港での通貨はホントはポンドにしたかったんだけど、長年この近辺ではメキシコドルやスペインドルの銀貨の信頼が高かったのでドル建銀貨ベースの「香港ドル」ができたそうな。


アジア太平洋の広い経済圏で複雑な通貨流通を調整した香港では、そんな感じで銀号が大きな役割を担っていた。貨幣取引が活性化し、次第に取引所が形成されていくのは自然な流れであった。銀号の中でも金銀貨幣の両替が主体の找換銀号が同業者間で取引をした舞台が「金銀業貿易場」。これがなんともユニークで、1880年代は布袋を背負って金銀取引を路上で行ってたのが始まりだそうです。そのうちビルを借り出したけど、非会員もビルの前で勝手に取引をはじめ、 徳輔道中のトラムの通行を妨害するほどになったとかの話が面白かった。その後に香港政庁から「社団登録しなさい」と通達されたそうな。東華醫院設立のパターンと似てますねって話。

折角なのでこの話を題材に、
 
 


◆香港と関係、接続していたそれぞれの港にも個性があり、たとえば

広州>香港とは、広東幣貨⇔香港ドルの為替により、連動してつながってた。広州が華南へ流通のの窓口状態。
上海>香港と流通の連動によって中国の南北ともつながった。上海が華北・華中の流通の窓口状態。(華北・華中から香港を通過して華南、つまりこれまで上海-広州という直接ルートはあんまり無かった。)
シンガポール>華僑送金の中継地だけど、同じ英領の自由港と捉えるのは正確ではない。連接する範囲や役割が違う。


因みに筆者さんの考察として、今後”香港の地位が低下するという悲観論に「上海脅威論」ってあるけど、香港の代わりになれる都市なんてないよ”と言い切ってるところがちょっと熱い。まあ、いま一応、”一国両制”でこのまま地位を保ってるけど、中華人民共和国の国民国家の枠組みの第一義として香港を捉えようとすればこの港の存在理由なくなっちゃうんだよね。でもきっと、長年培ってきた伝統の「つながり」という強みがあるから、戦後に見せた原動力のこともあるし、便利性を提供し続ける限り、香港は新陳代謝を繰り返していくのではないか。で、この本を〆ています。
これは熱い香港本でした!!


他にも、
●日本占領香港を脱出しマカオでつながった銀号の、恒生銀行の話。(一瞬マカオがにぎやかに!)
●広東人の広東人における広東人の為の広東銀行の話
●海外に住む華僑向けに送金サービスまでやってた貿易商店、シンガポール経由の「南北行」やサンフランシスコ経由の「金山荘」の話など、
数々の興味深いものが沢山有りましたが、ひとまずこの辺で。
ある程度香港史と19世紀のアジアを把握してから読んでいただくととても面白いと思います。
図書館に返さず、家に置いておきたい価値のある本でした。値段高い( ;∀;)

メモ代わりに書いてたら長くなってしまった・・・「香港」の事に興味ありすぎるあまり、なんで?って思うことが色々分かって楽しいというか、あ、うん、ここまで来て言うのも何なんですが、

ヘタリア関係ないっすね。

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19 April

【本読み】風水 欲望のランドスケープ



↑と、いうわけで読んでみました。

この本が発行されたのは1873年、割譲されてから30年後の話。主にアサホンちゃんの割譲当初の文化や会話、当時の街の様子を知る事を目的として読んでみようか!と気になって購入。なので、以下感想より下は、この本を頼りにした当時のアサホンちゃんの会話妄想詰め。
(日本語翻訳して出版されたのが1999年。丁度日本でも風水ブームがあった頃らしいです。)

-引用-
”風水とは何か” ”それは中国人の精神が自然科学の体系を求めてやみくもに手さぐりしたこと、というのに尽きるだろう。その手さぐりは、自然を実際的に観察しようとはしなかった。古代の伝統なるものの真実性及び抽象的な理由づけを、ほとんど排他的に信頼することにより、当然のこととして、中国人の精神をまったき闇の中に置き去りにしてしまったのである”

つまり、天文学や占星術、地軸が傾いてることまで2000年も前から知ってるのに、なんでそれ以上突っ込んで研究せずにあとは空想で終わらせてしまったんだよ!って著者はツッコんでるわけで、それでも本には、当時の著者なりの香港生活での体験から、風水というものに客観的に正面から向き合い、研究してきた内容がしっかりと記されています。(注釈でさらに翻訳者中野さんの補足付)天と地の法則、羅針盤の読み方、中国文化に風水がどれだけ影響しているか、風水の歴史および文献…等々ガッツリ。
まあ、自然科学にそれ以上発展しなかったのは、あんまりたくさんの人が知識をつけると、風水師的に金儲けにならない…し、って原因もあったと思うよ、みたいなことも書かれてます。

この本を読後、風水の事に関しては、私には(;・∀・)?でしたが たとえばこのページに書いてることがただのおまじない止まりじゃなく「あ、理屈的にわかる!」ってなります。サイトにある誕生日占いの事は読んだ本には書いてないけど。気になる方は是非!羅針盤を見るのが楽しくなりますよ。

因みに筆者アイテルさんはどんな人なのかというと、ドイツ生まれ。キリスト教の布教活動の為24歳でアジアに派遣される。中国の新安県、客家居住区で伝道活動…ってなんだかとっても清朝末期の動乱まっただ中ってカンジのプロフィールですな!で、イギリス人女性と結婚したくてロンドン伝道協会に入会。英国国籍ももらい、主に香港政庁で教育行政官として活躍。ガッツリ中国通だ。「穆天子伝」ってなんか翻訳界的に超難解の本の翻訳とかしてるらしいです。

19世紀に書かれたアイテルさんの香港歴史本もあります。めちゃくちゃ気になりますが、私は英語がさっぱりです。当時の西欧人が香港をどう見てたのか、気になりますね。
Europe in China : the history of Hongkong from the beginning to the year 1882
https://archive.org/details/europeinchinahis00eiteuoft


さてさて、本題。


当サイトは、APヘタリアの香くんクラスタ寄りの香港ファンサイトです。

最初に説明した通り、19世紀に香港に住んでいた方が書かれた本なので、割譲当初の香港の様子も少しながら出てきます。その中で気になったのが「気」の吉と凶について。

当時の香港はご存知「不毛の地」で岩がごろごろ転がってたわけですよ。その岩の中にどうも現在でも香港で超有名なパワースポットの”あの石か?”と思わされる描写がありまして…そう、「婚姻石」と呼ばれる石の事だよな?!と思われる石が…。それが19世紀のこの本では「邪悪な岩」と記されてるギャップに、きゃっきゃととても興奮いたしまして、

以下、香港島都市開発の件をアサホンちゃんに変換してみる仕事。

 
外国人は仕方なく新築屋敷を放棄したそうです。



※太平山は上環、ビクトリアピークのふもとあたり。

現代風水ブームの切っ掛けになった香港のHSBCビルの件で「英国が風水師にアドバイスを受けていただ…と?」って話題になったそうですが、西欧人的に、こんな感じで初期にも結構気にしてたといえば気にしてた、そうです。
当時、広州の外国人居住区の沙面島も風水的に最悪の場所だったらしく、シロアリ大量発生して建物が傷んだそうです…著者は「風水と中国手腕の明らかな勝利になった」と記してます。

 
「アベルとカイン」に例える著者のセンスたまらん。




 

それでも当時から、悪行で儲けた人はこの岩にお参りに行って、お供えもするし、線香もたいていたそうです。

現在の「縁結び」エピソードに関しては、香港ナビさんに婚姻石の歴史もちょっと掲載されてます。

こういう過去→現在の由縁の違いとか、いつからそう呼ばれるようになったんだろうって妄想したりするのとかとてもロマンあふれますよね。これだから昔の資料読むのは楽しいね!と…




当時の中国人の反応を置き換えると可愛い…。



 

英領になる直前、香港島にいた人口は7000人(2000人とかも言われてる。英国が当時サバ読んでたんではないか?って陳先生も言ってるのですが)その後割譲され、わんさか華僑の人やその他訳ありの人が住み着いたんだけど、華僑の人と英国人はお互い強制・反発はするけど協力・妥協は一切しないですみ分けてたそうですが、どうやらこの件は褒められたらしいです。
香港を仕切ってた華僑の話も好きです!また後日。

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